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糸 やはり、当たり前なのだけど、その行為はキスから始まった。正確に言えばその前にあの人は私の左の頬に手をやり、そのまま左の耳をかすめその手はうなじを軽く抱え込んでいた。その時から私の中の見えない壁が崩れ始めていたのだろうから、行為が始まっていたと言えるのかも知れないけれど。 うなじを抱え込まれながら、一体何の話をしたのか思い出せない。多分あの人は時折笑い、時折真剣な目をしていたので、きっとくだらない話をして私を笑わせたり、その時点では最上級の私への褒め言葉や愛の言葉を言っていたのかも知れない。その揺さぶりに完全に私の壁は決壊し始め、その権利を持つものしか押す事の許されないスイッチが露出され始めたのだから。 その時辺りから私は、言葉や仕草に気を使ったりとか、自分である事を司る機能が停止し始めているのに気が付いていた。とりあえずは何処かに神経を集中し続ける事しか出来なくなっていた。何処かに集中することだけが私に残された意識を保つ方法だった。 目の焦点が合わなくなるギリギリの所まで顔を寄せて、今思うと多分ほんの数秒なんだろうけど、その時は気が遠くなるぐらい目を見つめられていて、いつまでこの時間が続くのだろうと思い始めた瞬間、あの人との距離がゼロになった。あの人がスイッチを押してしまったのだ。 自我が崩壊し始める。そのスイッチで起動される私の中の動きを私は止める術を知らない。このスイッチを押せるものだけがその主導権を持ち、私にはその時拒否権が存在しないのだ。私の中の何処かほつれた糸を探し出し、あの人がその糸をするすると引き出し始め、スイッチを押せぬ者ならすぐに絡まってしまうその糸を、あの人はいとも簡単にそれを全て引き抜いてしまう。 そしてその後露呈する快楽というものに神経を集中させ、それを何処までも辿り続ける事でしか、私は記憶を残す事が出来なくなっていた。私が自分を取り戻せるのは、あの人が私の糸を元通りにしまい終わった後だ。それまではこの水の中に何処までも身を沈めていくしか私に出来る事は無い。 あの人は私の上唇を咥えていた。それもほんの触れるか触れないかの領域で。私はただ唇を弛緩させ、その感覚を味わっていた。あの人は私の上唇を味わい、下唇も味わう。それが何度繰り返されただろう。その唇の感触を完全に覚える頃、あの人の舌が私の唇をなぞり出した。それは私の舌とは違う少しざらついた感触で、まるで鏡を見ているかのように動き出す私の舌と私の唇に絡みだす。そしてその頃私は自分の体に見えない水が流れ始めるのを感じていた。 瞼、頬、顎、とあの人はその唇で何処までも優しく、そして何処までも私の皮膚を敏感にしていく感触を与えていく。あの人の右手が私の髪を掻き揚げ、私の左耳に唇が到達してきた時、私は自分の中の一体誰がその声を発したのであろうと思うぐらい、自分の中には存在しない声を上げていた。殆ど声として発声されてはいなかったであろうけど。 あの人の唇が耳をさらい、うなじがその唇と舌が這う頃には、先程の見えない水が増えているのを確信していた。そのざらつく舌の感触にうなじと私の中の声にならぬ声が悲鳴を上げている時、私の両腕ごと抱きしめていたその腕のどちらかが、ブラジャーのホックを外していた。 その後多分、肩、鎖骨、その辺りをあの人の唇は這っていたに違いない。記憶が分断され始めてきていた。そして気が付くと私はブラジャーを外された状態、下着一枚で仰向けにされていた。そして仰向けのままキスからの始まりだ。横になれた分先ほどより感触を覚えやすくなっている。しかし先程と違う感触も体中に流れ始めている。 仰向けになった私に覆いかぶさるあの人は、私の両腕を真横に広げ、丁度あの人の手が私の肘先になるような状態で押さえ込んでいた。そしてあの人の両足は私の骨盤から太腿にかけてがっちり固定してしまったのだ。全く痛みは無いのだけど、その気になれば取り払えそうなのだけど、肉体と共に精神も押さえ込まれたような気分になって、私は身動きが出来ない。 その状態のままあの人の唇と舌が私の上半身を這い始める。敏感な部分を後回しにされ、まるでアリ地獄の砂のようにあの人の舌は這っている。おそらく普段の数百倍は感度が上がっているその肌の上をあの人の舌は這っている。私の中の声は先程から声にならない声を発し続けている。これはもう私の声では無い。こんな欲情的な声を私は持っていない。 常に何処か固定された状態で、あの人の舌は仰向けのままの私の全身を這っていった。気が付くと大きく開かれた太腿の内側や、そのつま先に至るまで。私の声は声なのか嗚咽なのか悲鳴なのか分からないまま。その後記憶が正しければ、うつ伏せの状態であの人の舌は私の背中を這っていたはずだ。やはり体は固定されたまま。 記憶がはっきりし始めたのは今までにしたことの無いような格好を、あの人は私の体で作ってしまったからだ。うつ伏せの状態からお尻だけ持ち上げられ、顔はベッドに付いたまま下半身は膝立ちの状態。そしてその膝を心持ち左右に広げ、あの人の舌は私の内腿や膝裏を這い始める。その時私は自分の下半身が震えだしたのを覚えている。 この後初めて私の下着にあの人の手が伸びた。この時には私の下着は下着としての用途も成していなかった。先程から体中を駆け巡り流れ出していた見えない水は、ここに大量に集中して溢れ出ていた。下着の上に染み出す水。その下着が隠しておくべき場所がはっきりと裏に映し出されてしまうほど。何の意味も無い只の布になっていた。 その只の布をあの人が取り去ると、堰を切ったかのように溢れ出す水。これは自分でもはっきりと覚えている。まるで全身の水分がそこに集中しているかのように私には感じられた。そしてそのままの状態であの人の舌が水を掻き分ける。そこからまた記憶が飛んでしまった。 あの人が私の上に覆いかぶさり、再びキスをした瞬間から記憶が戻る。多分それまでの間、あの人の舌と指とあの人の代用品は私の水を掻き出し続けていたのだろう。感触だけは下半身に残っている。何をどうすればあの感触が残るのか分からないけど。 私の下半身とあの人の下半身の距離が近くなっている。距離がゼロになった状態であの人はまた何か話し始めているようだ。何か一言二言呟いては私にキスをする。また呟いては私の耳を触り、また呟いては笑顔を見せた。そして私はあの人との距離がマイナスになる瞬間に感覚を集中させた。 確かにこの瞬間二人の距離はマイナスになった。まるで今まであった遠い距離で生じた二人の時間の差を埋めるように。そのマイナスの距離はほんの僅かなのだけど、絶対に二人に時間の差を発生させない、そして今までの時間を全て取り返すだけの距離だった。 マイナスの距離は更に大きくなる。マイナスの距離がこれ以上大きく出来ない状態であの人は動くの止めた。私の両腕をまたホールドして、私に目を開くように要求し私の目を見つめだす。私は目を開けるのが嫌だった。どうせ涙であの人の顔などまともに見れやしないのだから。 全く動かぬ彼の下半身の動きを求めるかのように、私の意志とは無関係に下半身が動き出す。このとき私は自分の雌としての本能を垣間見る。それに促されてかは分からないけれど彼が動き出す。二人の胸は密着したまま。何処にも距離を感じさせないように。 名前を何度も呼ばれていた。そして私もあの人の名前を連呼していたはずだ。その頃にはどちらが抱いていてどちらが抱かれているのか、そんな事はどうでも良くなっていて、私が求めているのかあの人が求めているのか、ましてや何をなどという事は本当にどうでも良くなっていて。 その頃から快楽を露出したまま、私の中で糸をあの人が紡いでいるのに気が付いていた。一体どう紡いでいるのかわからない。しかし着実に「私」を私の中に作り上げていた。後でどうその中に快楽をしまうのか分からないけれど。 またあの人が動きながら何かを言い始めている。良く聞き取れない。どうやらあの人が終わりを迎えるらしい。私はそれまで記憶に残らぬほどピークを迎えていたし、ここに来てどこがそのピークなのかすら分からなくなっていた。多分ピークをキープしたままだったのだろう。後はあの人が最後の一押しをするのを待っているだけだった。 記憶が飛ばぬようにと思っていたけど無理だった。私は多分雌の本能に従ってあの人の雄の本能に追随するしかなかった。ただ感触として残っているのは私の今までのやり場の無い感情の全てが、私の声や肌からあの人の中へと入っていってしまっているのだろうという事。決して今まで薄くもならず何処までも濃さを増していったあの人への思いが、一気にあの人の中へ私の水と共に流れ込んでいった感じだ。 そして私はあの人の重さを全身に感じながら、私の中の糸が全て紡ぎあがっているのに気が付いた。あの人の手で織り込まれた私。そして私が最中にうわ言のように言っていた言葉を思い出す。 「忘れられないかも知れない」 その言葉に対してあの人はなんて言っていたのかは思い出せない。だけど、あの人の思いとあの人の液体で織り込まれた私の糸を見ると、何処を眺めても半分は全てあの人の物だった。まるで遺伝子が組み合わさるように綺麗に一つの乱れも無く、私の部分とあの人の部分が織り込まれたいた。 「忘れられないようにしてるんだよ」 あの人はそう言っていたのかも知れない。でもそんな事はもうどうだっていい。忘れるも何も私はあの人で織り込まれている。あのスイッチを押せたのもあの人だけだ。これで何をどう忘れろというのだろうか。 露出された快感をどこかに浮かべながら、私はあの人との距離をこれ以上離さぬよう両腕で抱きかかえた。 |