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遊び相手 人生とはえてして退屈なものだ。毎日同じ道を歩き、毎日同じ道を帰る。遊具としてそこに存在するものなど、すぐに厭きてしまい退屈しのぎにもなりやしない。だから私は必死になって「遊び相手」を探した。一生退屈せずに過ごしていける最高の「遊び相手」を探そうと思った。 その遊び相手は私の予想通り、決して私を退屈させることなく今まで来ることが出来た。そしてこれからもその遊び相手は私を退屈させることは無いだろう。それもそのはずだ。私はその遊び相手を全身全霊を持って観察し、選んでいるからだ。 私は遊び相手に「金と時間」をかける。それは当然の行為だ。人生という長い期間において私を退屈させないでくれるのだから、金と時間など惜しいとも思わない。そして相手の欲しがるものを全て満たしてあげようと努力する。無論、そこには100%などと言う文字は存在しないから、足りない部分を私はあるもので補おうとする。そのあるものとは「言葉」だ。 言葉は人間にとって最大の道具だ。相手に感情を伝え、理解させ、本来ありうるはずの無い共有を生む。その共有こそが、私と遊び相手を繋ぎ、人生という長い期間を退屈せずに過ごしていける最大の要素だと思う。 しかし逆に言葉は時として、人間にとって最大の凶器となりうる。言葉一つで人を苦しませ、悩ませ、時として殺める事も可能だろう。だから私は私の遊び相手には細心の注意を払って言葉をかけるようにしている。しかし私も人間だ。時に軽率な言葉を発し、本来守らなくてはいけない遊び相手を傷つけてしまったりする。 その遊び相手を傷つけてしまったときの私の行動は愚かだ。男という生き物は往々にして計算立てて生きている動物である。遊び相手を傷つける瞬間と言うのは、その計算が破綻し崩れ去る瞬間でもあるのだ。その瞬間には言葉というのは何の意味も成さない。何故ならば、相手は「直感」を頼りに生きていける「女」と言う生き物だからだ。 女が自らを女だと自覚し、その自らの女の部分に忠実であるときに働く直感と言うのは、すべてにおいて正しい。その直感で私の軽率さを見抜き、行動に表すのだ。その行動も常に正しいと私は考える。そしてその行動に対しては、私は常に無力だ。 しかしながら私は無力のままそこに立ち尽くすわけにはいかない。だから私は、今度は確実に言葉を選ぶ。少なくてもいい。確実に、過不足無く、相手に伝わる言葉を選んで話しかける。そして過ぎる時間を静かに待つ。 その行為を愚かだとあざ笑う人もいるだろう。情けない行為だと。男の取るべき行為では無いと。しかし私は気にしない。人生という退屈な、そして人の屍の上を歩いていくと言う行為の中で、退屈せずにそして大切な人間を傍に置いて歩いていけるのなら、情けなくて結構、愚かで結構だと思っている。 私にとって「遊び相手」とは大切な人間だ。それが一人であろうと二人であろうと。いつかは別れが来ることがわかっていても、例えそれが短い時間だったとしても、私を退屈させずにいてくれるのなら、私は自分の能力の許す限り、持てる力を全て発揮してそれらの魂を守るであろう。そして時にその魂を傷つけてしまったときには、何をもってしてもその修復に全力を注ぐであろう。 自分勝手と言われてもかまわない。いや、私は自分勝手に生きている。自分の都合だけを考えて生きる人間だ。全ての考えの基本は自分の中に存在し、その基本に忠実に生きている。相手の意見などそこに入り込む余地など無い。 しかしそれと同時に私が選んだ人間は全て正しいと信じている。その人間の発する言葉も全て正しいと信じている。周りが「黒」と言おうとも、その人が「白」と言ったのならそれは「白」だと私は信じる。私はその言葉を信じ、守るだけだ。 「遊び相手」を傷つけてしまった時に、言葉という最大の道具を使えないというのは辛いことだ。今は時間を待つしか無いのだろう。恥部をさらけ出し、考えを共有し、退屈を私に感じさせない遊び相手を傷つけるのは、私の最も愚かな行為なのだ。 |