|
嘘の言葉 いつもは漏れるはずの無い朝日が遮光カーテンの隙間から漏れていた。その為どんなに日の光が射しても真っ暗なはずの部屋がほんの少しだけ明るくなっていた。昨日の夜からカーテンが乱れたまま直さずに寝てしまったのだろう。その乱れたカーテンの隙間から漏れるほんの少しの光を頼りに彼がブリーフの裏表を確かめている姿が目に入った。 彼も起きたばかりなのだろうか、或いは近視のくせに眼鏡を掛けていないせいだろうか、彼は何度も黒のセミビキニのブリーフの裏表を顔に近づけて確かめている。薄目を開けながらそれを見ている私に彼は全く気がついていないようだった。昨日の夜の出来事の時の彼の姿から比べると余りに滑稽なその姿に思わず笑ってしまいそうになったが、余りにも何度もそれを彼が確かめるものだから、私は彼の本当の姿を思い出してしまった。 彼はきっとこの後このまま会社に向かい、その仕事が終われば彼の帰りを待つ家族の居る家に帰ってしまう人だったのだ。それを思い出すとこの滑稽に見える姿も、きっと奥さんにばれないようにやっていることなんだな、そんな事私の部屋を出てから好きな場所でやればいいのに、と少し不機嫌で悲しい気持ちになってしまった。 きっと私を起こさぬ様にと気を使って部屋の電気をつけないでやっているのだろう。ブリーフの裏表がハッキリしたのかそれを穿いた後には、さっきのブリーフと同じようにTシャツの裏表を確かめながら着ている。そんな事よりも、昨日の夜私がつけてしまった彼の左の乳首の上のキスマークだとか、彼の奥さんよりもずいぶん長くて明るい色の私の髪の毛がどこかに挟まっていやしないだろうかとか、彼のとは明らかに違う私の香水だったりとか、そんなことを気にした方がいいんじゃないだろうかと、身なりを整えて私の部屋から去ろうとしている彼を見ながら思っていた。 鼻から入ってくる部屋の空気が重い。そして昨日の夜はあんなにいい匂いが、彼と私の香水と、彼と私の体液の匂いが部屋中に充満してたはずなのに、その密度の濃い匂いがすべて枯れ果ててカサカサとした乾いた匂いしか私の肺の中に入ってこない。やたらと重いくせに乾いた匂い。そんな事を感じているうちに彼がネクタイを締めてしまった。 彼も物凄く必死なのはわかる。今まで決して泊まっていくことの無かった私の部屋に昨日の夜は本当に無理を言って、我侭を言い続けて無理矢理泊めてしまったようなものだったから。いつも深夜に彼が居なくなる時よりも空気が重たくなるのは当たり前だ。彼と居る時間が長かった分、彼の体温を感じていた時間が長かった分、そして彼が必死になっている分、今私が感じている寂しさだったり悲しみだったりは今までのそれとは比べ物にならないはずだから。 彼がネクタイを締め終わって私の方を見ているのが分かった。そこで私はゆっくりと目を開け始め、あたかも今起きたかな様なそぶりを見せた。 「おはよう。」 彼が掛けるその言葉に私は声を出さずにニッコリと微笑んでみせた。そして両手を大きく広げ、彼の前に差し出す。彼は広げた私の腕の中にゆっくりと入ってきて、私の首の裏に手を回し私の体をそっと起こした。 「もう、時間だから行くね。」 薄暗い部屋の中で私を抱きしめて彼が耳元でささやく。彼の体に回した腕は彼の体を更にきつく抱きしめる。私はまた声を出さずに彼の肩の上で首を立てに振ってみせた。空気はさっきより更に重たくなっているのを感じながらも、私はとりあえず言うべき言葉を言ってみた。 「いってらっしゃい。気をつけてね」 彼は「行ってくるよ」と一言だけ言い、私を抱きしめる腕の力を緩めた。その腕の力が抜けるのを体で感じてから私も彼に回している腕の力を緩める。私の腕の中からすり抜けるように立ち上がる彼。ポケットの中に彼が手を入れると、外から彼の車のエンジンがかかる音が聞こえる。私はベッドの真ん中にそのまま座りながら、少しだけ寝ぼけたふりをして、寝ぼけた声を出してみて、多分言っちゃいけないんだろうなとか考えながら、背中を向けて部屋のドアへと向かう彼に向かって声を掛けてみた。 「ねえ。」 立ち止まり振り返って私の方を見ている彼。その彼に向かってこう続ける。 「こんど遊びに来る時、『ただいま』って言って部屋に入ってきて。」 彼が頷いたようにも見えた。だけど彼の顔が笑っていたのか、困惑しているのか、或いは全くの無表情だったのか全く分からなかった。顔の表情が分からなかったのと、この部屋の空気の重さにもう耐えられなかったのとで、私はまた枕に頭を埋めてしまった。 頭を枕に埋めて私は足でカーテンの乱れを直した。そうして真っ暗になった部屋にはさっきの彼の滑稽な姿のイメージが残り、その滑稽なはずの彼が運転して駐車場を出て行く音が響いていた。その音が余りにも切なかったので、その音をあの滑稽なはずの彼の姿と重ねたくなかったから、さっき言った言葉はやっぱり聞きたくないと思ってしまった。 「ただいま」なんて一番の嘘の言葉なんだ。 |