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Vol.1〜新宿
セックスは、心の中の愛のある場所―木綿子にはそれが未だに何処なのかはっきりとは分からないが――の、すぐ隣を突き刺す。つまり、セックスの最中に心の軸が少しでもぶれてしまえば、自分の愛は串刺しにされてしまう。
木綿子はノッチとセックスをするたびに思う。
いっそこのまま、串刺しのままにしておいて欲しい。
新宿。
立ち飲み。
ハツにレバー。
ショットバーでギネスビール。
そして雨とほんの少しの夏の匂い。
二人ともとりあえずは雨を理由にはしてみたけれど、別に雨など降っていなかったとしても立ち寄るはずだった歌舞伎町のラブホテル。楽しいと、余りに楽しすぎるとお酒を飲みすぎてしまう。そして、酔っ払った男は最低だけど、酔っ払った女はもっと酷い。
綺麗に並べられたペアのスリッパ。
コロナビールとジーマの瓶。
カラオケ。
口移しのお酒。
ゴシック調の床に投げ捨てられたコンドーム。
薄れ逝く意識。
そして吐き出すことの出来ない言葉。
吐き出せぬ言葉の代わりに、トイレでしかも素っ裸のままリアルに吐いてしまうのは、いったい女としてどうなんだろう?
木綿子は思う。
考えてはみたものの、酔いすぎた頭に答えなど浮かぶはずも無く、具合悪さと情けなさと悲しさとで混乱してくるし、急激に抜け出すアルコールのお陰で体は震え出すしで、もういっそこのままここに置き去りにされて変死体とかで見つかってくれれば、その時は少しは美しさを取り戻せるのかも知れない――そんなくだらないことが木綿子の頭を過り始めたとき、さっきから見るに見かねていたノッチは、トイレで震えながら横たわる木綿子の体を持ち上げて、熱いお湯がタップリと張られたバスタブの中に投下した。
「あ、悪いわりぃ。手が滑った」
お尻からバスタブに投下された木綿子は一旦頭までお湯に浸かり、慌てて体を引き起こし、ずぶ濡れのまま目を大きく開くと、イタズラ好きの、しかしこなれた表情でノッチは笑っていた。
「あのままじゃ死んじゃうぜ。それに早くアルコール抜いてスッキリしないと、終電なくすよ。優兄ぃ、家で待ってんだろ?」
そう言いながらノッチは木綿子の体の隙間に緩やかに、しかし押しのけるようにしてバスタブの中に入っていった。バスタブからお湯が溢れ出る。表面張力などまるでこの世に存在しないかのように。ノッチの腰に木綿子の足が当たる。肌が足に吸い付く。ノッチの肌は男にしてはとてもきめ細かく、水の中ではそれが増すようだ。酔った頭でもノッチのそういうところだけは分かる。
――このバスタブのお湯より私のほうがよっぽど立派だ。本当にほんの少しだけど、きっとギリギリの線で感情は溢れ出しちゃいないはず。
木綿子がそんなことを考えているとノッチは、
「どうしたんだよ木綿子さん、あんなに酔っ払って」
と、その滑らかで硬い足の甲を木綿子の股間に押し当てながら聞いてきた。
「どうして、って、ねぇ……」
ノッチ――野島地平――は木綿子より七つも年下で、肌が白く綺麗で、柔らかに見えるその皮膚の裏側はしっかりした筋肉で構成されていた。背も高く、女性の中で小さくはない木綿子を後ろから、そして上から楽々と抱きしめられるほどだった。だから木綿子を抱くノッチは、いつも柔らかくそして硬かった。ヤンチャで、酔っ払うとスケベで、そのくせどんなときも木綿子より何倍も冷静だった。そして木綿子のどこが弱いかを、ほぼ、知り尽くしていた。
「……うっさいなー、もう。足、ずらしてよ」
意地悪そうな顔をしながら、ノッチは足をずらして木綿子のお尻を挟みこむ。ノッチは意地悪そうな表情を見せるが、木綿子にだけは決して意地悪なことはしない。肌が触れていと安心する木綿子の事を良く分かっていたから、二人っきりで居るときは決して木綿子から肌を離すことはしなかった。そして、いつもノッチが触れている場所はまるで木綿子の何かを探るようにいつも動いていた。柔らかに、そして時に淫靡に。
指、掌、唇、足、肌。
それにいつも揺り動かされている木綿子ははその動きがほんの少しでも止まると、隣に居るはずの、触れているはずのノッチを探し出す。
揺り篭は揺れ続けていないとその意味を成さない。
まるで二人の関係のように。
先に上がってるよ、とノッチはバスタブから立ち上がり、木綿子を揺り篭の中から放り出した。木綿子の体を包んでいた、溢れ出るほどあったはずバスタブのお湯が一気に姿を消す。
入れ物、の大きさは常に固定されている。そこに入れることが出来る物の数も、その周りを満たすべき物の量も決まっている。このバスタブなら定員は二人。そしてこのお湯の量なら、二人きっちり入らなければお湯はバスタブから溢れたりしない。逆に二人のどちらかが欠けてしまえば、体はお湯に満たされることなく、誰かがバスタブにお湯を足さなければ上半身は寒々としたままだ。
ガラス越しに体を拭くノッチの影を見た後木綿子は、無駄に装飾されたバスルームの中の天井を見上げる。天井だけは只白いだけでシンプルだ。無数の水滴が今日は見られない星のように無数に散りばめられていた。
「背中、拭き忘れてないかな」
ノッチの少々乱暴な介抱のお陰か、木綿子の酔いは大分醒めてきて、今日とか明日のこと、ノッチのこと、そして優太のことを考え出す。
「帰り道、どうせまた濡れるんだから一緒か。それに優太はもう寝てる。私が濡れて帰ろうが、酔って帰ろうが、多分、無関心なままだ」
無関心。
それは木綿子にとって、殆ど絶望的と言っていいほどの響きを持つ言葉だった。
しかも恋人や配偶者と呼ばれる人々、つまり少なくとも一度は好きになった人間に対して、嫌悪や憎悪という感情を抱くならまだしも、無関心でいられることは、木綿子には信じがたいものだった。
「木綿子さんはYESとNO、ONとOFFで出来上がってる女だもんね」
余りにもはっきり物を喋りすぎる木綿子に、ノッチは茶化してよく言っていた。
しかし木綿子は本当にそう思う。無関心でいられるくらいなら、むしろ嫌いと言って欲しい。ダメだと言われるより、出て行けと言われるより、無関心な空気だけが張り詰めただけの空間で呼吸をし続けることの方がよっぽど辛い。寝て、起きて、事務的な言葉の羅列の繋がり。ノッチが実際自分との関係をどう思っているかは木綿子には分からなかったが、少なくとも木綿子にとっては今のところ、呼吸の出来る唯一の場所を与えてくれる人ではあった。自分の夫の弟と寝ることは、決して自然な出来事ではないにしろ。
ノッチの香水の匂いが染み出したバスタブのお湯は、独りきりにされてしまっても、木綿子にとってとりあえずは心地の良いものだった。減ってしまったお湯の中に体を丸めて沈んでしまえば、まるでノッチに抱かれているような気分になれた。その暖かさで吐き出すことの出来なかった言葉が体の外に溶け出して、ほんの少しだけ気持ちが楽になった。言ってしまったところできっと何も変わらないだろうし、木綿子もノッチもその言葉の存在を知りながらも、深い部分ではなるべく考えないようにして、忘れた振りをしている言葉。
木綿子は思う。きっとそれが真実かどうかなんて考えてしまうのは、それが都合の良すぎる言葉だからに違いない、と。
そう、その言葉を吐き出したところで、多分セックスが気持ち良くなるだけの話に違いない。
「そろそろ行こうぜ」
すっかり着替えてしまったノッチがバスルームにその涼しげな顔を覗かせた。
トイレでの変死体なら少しは美しいと思っていたが、バスルームでの変死体ならきっとふやけてしまって、とてもじゃないがさっぱり美しいとは思えない。
木綿子はまだ酔ってるな、とも思ったけど、このままグダグダしててもきっとノッチはもう構ってくれないと思ったし、二人とも終電に乗り遅れるわけにはいかなかった。
――とりあえず――私には待つ人が居る。ノッチはどうなのだろう。
部屋の中を散らかしたまま後にして、只無機質に動くエレベーターの中で木綿子は思う。
二人がホテルの外へ出ても、新宿はまだ週末の喧騒と雨の中だった。
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