◇   Vol.3〜真夏の夜の出来事(月と蝉)



 ――何? どうしたの急に?
 ――え? 僕のこと好きか、って? あはは、何を急に言い出すのよ。そりゃ好きに決まってんじゃない。嫌いな男とはセックスしないわよ、私。
 ――ふざけてなんかいないわよ。キミだってそうでしょ?
 ――違う? 違うってどういう意味よ。
 ――あはは、キミに真剣にって言われたって、私はどう答えればいいのよ。ねえ、両手に満たないほどセックスしたからって、一体私の何が分かるっていうの?
 ――愛してるって、ねえ……それ、キミの趣味なんだと思ってたよ。セックスの最中、自分を盛り上げるエッセンスとして口から出してるだけだって。
 ――男のくせに泣かないでよ。愛とか結婚とかキミに言われても、残念だけど私何も感じないの。お金も無いまだ学生のキミをどうやって信じて、どうやってついていけっていうの?
 ――幸せにするって。あはは、でも、どうやって?
 ――それならさっきと何も変わってないじゃない。愛されれば幸せなら、世界中に不幸な人はいないわよ。
 ――もう逢うの止めにしましょう。その、キミの愛は別な人の為にとっておいて。

「ねえ、野島君。野島君。起きてよ」
 未来(ミク)は、汗まみれになってうなされているノッチの体をゆすって起こした。その真っ直ぐでサラサラと良く揺れる髪を揺らしながら。
「……どうした?」
「どうしたって、野島君、凄いうなされてたし、汗だって凄いよ」
 ノッチは起き上がり、汗まみれの自分の体を確認して、あたりを見回した。中野にある未来の部屋だ。エアコンが程よく効いていた。小奇麗なワンルームには似つかわしくない真っ赤な皮のソファーの上にはノッチのジーンズと、未来のジーンズ。ピザを一枚乗せてしまえば一杯になりそうなテーブルの上には、ビールの空き缶が数本。金曜日の昨日、熱帯夜の咽返るような暑さの中、会社の同僚と吉祥寺で飲み歩き、その後未来の部屋にタクシーで深夜に乗りつけたのを思い出した。
「なんか、飲み物ある? 水でもいいや」
「うん」
 未来は小さな冷蔵庫からスポーツドリンクのペットボトルを取り出すと、ノッチに手渡しながら聞いた。
「なんか悪い夢でも見たの?」
 ノッチは、夢、を思い出す。しかしノッチにとってはそれはただの夢ではなく、思い出すだけで汗まみれの体の表面が全て凍りついてしまいそうになるような、ほんの数年前の出来事だった。ノッチは先ほどの夢を頭の中から消し去ろうとしながら、未来に答えた。
「なんでもないよ。それより、今何時?」
「三時半、だけど。昼の」
「うん」
 未来はノッチの答えを聞いたあと、Tシャツすら身に着けていなかった自分に気がつき、ベッドの脇に捨ててあったTシャツに細い首を通し、ノッチのジーンズの下敷きになっていた自分のジーンズをとりあえず穿いた。
「ねえ……」
 話しかけるノッチに未来は背中越しに返事をした。
「何?」
「昨日、っていうか今日っていうか、俺、未来に何かした?」
 何か、って。
 この状況をどう考えてそんなことを言っているのだろうと未来は思ったが、ノッチが酔いにまかせて深夜に訪れて泊まっていく、そのことは今に始まったことではなかったし、二年前に別れてるとはいっても、未来は未だにノッチの事が好きだったし、そんな台詞を言う男も、それを許す女も同罪だろうと未来は考えていた。
「何って、覚えてないなら、それでいいよ。」
 ベッドの足元にあったトランクスを既に穿いていたノッチに、ジーンズを手渡しながら未来は言った。
「うん、そうだよな……あはは、丸っきり覚えてないや」
 ノッチの乾いた笑い声は、未来の中の何かをいつも縛り付けた。それは柔らかいものではなく、鉄条網か何か、鋭い棘の沢山ついたもので。しかもノッチはそれを最後まで締め付け上げて未来を殺すことも無く、未来自身を、或いは未来の何かをそのまま何処かへ持ち去ることもせずに、ただ縛り、その場に固定するだけだった。
「うなされてるとき、俺、なんか言ってた?」
「ううん、別に。ただ苦しそうにしてただけ」
 テーブルの上のビールの空き缶を、小さなキッチンへ持って行きながら未来は答え、数分後の将来を予感しながら未来は聞いた。
「そうだ、何か食べる?」
「や、いいよ。これからシンジと会うんだ。未来も知ってるだろ? 確かゼミ一緒だったはず」
「うん。飯島君でしょ。確か出版関係に就職した」
「あ、そうそう。なんか悩みがあるって言ってさ、下北で飯食おうって」
「うん、そっか」
 ジーンズを穿き終わったノッチは、ベッドに腰掛けてセブンスターに火をつけていた。未来はタバコの匂いや煙は嫌いではなかったが、小さな部屋にゆるりと立ち込める煙を眺めながら色々と考えてしまった。このままノッチはまた何処かへ行ってしまうこと。そしてノッチが何処かへ行ってしまった後でも、ノッチが居たときと同じ匂いだけが部屋に残ってしまうこと。
 それを考えると未来はとてつもなく悲しくなってしまった。それでもキッチンに置いて来たビールの空き缶を、再び取りに行ってノッチに差し出す未来。
 まだ熱帯夜が明けやらぬ頃、ノッチが華奢で小さな未来の体の上に乗り、未来の髪に指を通し頭を押さえて、黒目がちな未来の瞳を見つめながら言った言葉。
「なあ、俺の事好きか?」
 そう口走ったことも、それに未来がどう答えたかも、ノッチは覚えているはずがない。その瞬間二人を隔てるものは、その気になれば破り捨ててしまえるほどのほんの薄い膜だけだったことや、窓の外に浮かぶ限りなく丸い青い月や、その光に照らされた青白い空気の中に沈み、二人っきりで揺れていたことや、そこは世の中の喧騒と隔絶された完璧な水中であったことや。そんなことはノッチには感じるはずもなく、覚えているはずがなかった。
 それを思うと未来は絶望的な気持ちになったが、妙な色の象が描かれたTシャツを着て、バッグの中身を確認して、
「なあ、俺、汗臭くない?」
 とまるでこれから遠足にでも出かけるように、無邪気な笑顔で未来の顔に胸を押し付けたりするノッチを、未来はどうしても嫌いになれずにいた。
 身支度を整え、持ち合わせが少ないからと言うノッチにお金を渡すために、枕元にあったバッグに手を伸ばす未来。しわになったベッドのシーツの上に、ほんの一時間前まで一緒に寝ていたノッチの姿を思い出す。
 付き合っていた当時、狭いシングルベッドの上に二人で寝るために、ノッチも未来も互いにベッドの端に寄って寝る癖がついていた。ノッチはその癖が抜けきっておらず、昨日セックスが終わった後、月の光に照らされながらベッドの端に寄っていくノッチを未来は眺めていた。その名残りのシーツのしわ。そしてノッチが姿を消した後、ノッチが寝ていた場所と反対側の端に寄って未来は一人寝る。
「じゃ、また、な」
 と玄関で言うノッチに、
「うん。飯島君によろしく」
 と言って手を上げる未来。
「野島君」
 スニーカーに指を入れて履いているノッチを未来は呼び止めた。
「ん?」
「今度、いつ来る? っていうかいつ逢える?」
 ノッチの答えは決まっているはずだったが、この後未来だけに訪れる時間を考えてしまっては、未来は聞かずにはいられなかった。
「連絡するよ。ありがとう」
 そう一言だけ告げて、ノッチはドアの向こうへと行ってしまった。
 ドアの外のノッチの「あちー」という声。
 部屋に充満するセブンスターの匂いと、ゴミ箱の横にうな垂れるティッシュの残骸。鉄製の階段を打つノッチの鈍い足音と、窓の外は夕立を降らしそうな雲。決して、ごめん、とは言わずに、いつも必ず、ありがとう、と言うノッチ。その言葉は、一人きりになった未来を更に縛り付ける。
 未来はベッドの横に落ちる自分の下着を見つけた。
 そしてジーンズを脱ぎ、ノッチが酔いながら乱暴に剥ぎ取ったそれを身につけ、冷たく湿っただけの下着にノッチの温もりを探そうとしていた。



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「で、話って何よ?」
 週末の下北沢は、連日の暑さにもかかわらず学生でごった返していた。半年振りに会うノッチとシンジは下北沢の駅近くの大衆居酒屋に居た。
「俺の話もそうだけど、お前はどうなんだよ。アニキの奥さんとまだ続いてんの?」
「まあ、それはいいよ。話があるっていうから来たんだから、シンジの話が先だろ」
 ノッチとシンジは大学時代のサークル仲間で――サークルといっても活動内容などはっきりせず、気の合う人間が集まって飲んだり旅行に行ったりという程度のものだったが――、学生時代からつるんで遊び歩いた仲だった。今までに誰と付き合ってどう別れたか、互いに全て知り尽くしている悪友であった。
「あはは、そうだよな。話つーかさ、なんだろ。んー、女ってさ、なんで、こう繋ぎとめようとかさ、縛ろうとかさ、そういう事を言うのかな」
「なに、彩ちゃん?」
「ん、まーね」
 そういってジョッキに入った酎ハイを口にするシンジを見ながら、ノッチはサラダを頬張った。周囲はまるで今日が世界の終わりかのように騒ぐ学生だらけだったが、きっと自分たちも似たようなものだったのだろうと思いながら、ノッチは話を続けた。
「前にも言ってたアレ? いつまでこのまま続くの? とか結婚、とか?」
「そうそう。まあ、俺もいい年っちゃいい年だから、彩がそう言うのも仕方ないと思うんだけどな。付き合いも長いし」
 彩はシンジと同じ会社の同僚で、一つ後輩だった。彩が入社してすぐシンジと付き合いだしたから、その付き合いは三年になる。千葉の実家から通うお嬢様で、シンジにはもったいないほど出来た女だとノッチは思っていた。
「ふーん。結婚しちゃえばいいじゃん」
 ノッチのその言葉を聞いて、シンジは酎ハイを吐き出しそうになった。相変わらず周囲は騒がしい。
「結婚たってさ、そんな簡単なもんじゃないだろ? それに、なんていうか、する度に『愛してる?』とか、『このまま一緒にいて』とか、言うしさ」
「んで、なんて答えんのよ?」
「まあ、適当に言うけどさ。別に彩の事嫌いじゃないし、つーか大好きだけどさあ」
 ノッチはシンジの困りながらもそれ程悩んでいない感じ、もう既に彩との結婚を確実なものとして考えていることを、その嬉しそうな表情から読み取っていた。学生時代から何かと面倒見のいい、困っている人を放っておけない正確、ましてや自分が惚れている女なら、その要望に応えようとするだろうシンジの気持ちがよく見えていた。
「お前、そんな時どうしてんのよ?」
 シンジが言う。
「そんな時って?」
 ノッチの頭に木綿子と未来の顔が同時に浮かんだ。
「んー、ほら、セックスの最中に『愛してる?』って聞かれたりとかさ、逆に『愛してる』とか言われたりとかさ」
 ノッチはビールのジョッキを口に当てたまま右の頬だけしかめた。そして残りのビールを飲み干し、近くに居た店員におかわりを頼んで、節目がちに一言いった。
「キスでふさぐ」
 昨日の未来の顔と、先週新宿で飲み潰れた木綿子の顔が目に浮かんでいた。今度は口に頬張った焼き鳥を噴出しそうになりながら、シンジは言った。
「なにそれ、どういうことよ」
「どう、って。女がさ、そんなことを言いそうだなあ、って瞬間あるじゃん?」
「うん」
「そう思ったら、キスして、口を塞いで、言葉を止めるの」
 涙を流しながら何かを堪えていた木綿子の顔と、昔、未来が言った言葉を思い出していた。
「ノッチー、相変わらずお前、ひでー男だなー」
 自分の中にある安心感や確信といったものを感じながら、シンジはノッチに言った。
「はは、でも、聞いたのシンジだぜ?」
「そりゃそうだけだよー。女のそんな瞬間止めてしまうなんて罪なんじゃない?」
「わかってんなら、シンジがこんな話持ち出すの変じゃない?」
「まあ、そうだけどさ。なんか、もっと、ノッチさあ。女、大切にしたら?」
 数時間前に未来の部屋で見た夢がノッチの中に甦る。
 大切に。愛して。それがどれだけ無駄なことか。
「大切にはしてるさ。でも、それと愛してるとか、セックスとかって、別だろ?」
 おかわりで来たビールを半分ほど飲んで、ノッチは言った。
「別、か?」
「別だろ。それを一緒にしてしまったら、困るのは男じゃなくて、女だろ」
「ふーん」

 ノッチは残ったビールを飲み干して、次の店へ行こうとシンジに言った。店を出ると相変わらずの暑さの中、学生たちの狂喜は続いていた。夏などまだまだ続くのだから、そんなに慌てることも無いだろうとノッチは思った。慌てなければいけないのは、俺やシンジの方だとも。
「そういえばさあ」
 お目当てのバーに向かう途中に、人ごみをかわす様に歩くシンジがノッチに話しかける。
「この間、高橋に面子が足りないからって言われて、合コンみたいのに参加したんだけどさ、高橋のヤツまだ悪い癖が治ってないらしくて、女が全員未成年な感じでさ」
「はは。相変わらずどうしようも無いヤツだな。で、どうだった?」
「全然。話なんか丸っきり合わないしさ、年齢的にもう無理だろ? その子達と10ぐらい年離れてるんだぜ? 丁度俺の隣に居た子なんか、自分が渋谷で自殺しようとしてオジサンに助けられて、って話、延々してるんだぜ? そのオジサンからハートマークがいっぱい付いたメールが送られて来たとかさ」
 自分たちが学生の頃から通っていたバーはもう目の前だった。
「はは。また痛い子だな。でも、その話に延々付き合ってたんだろ? シンジもいいやつだよな」
「そう言ったって、無言でいたって場がしらけるだろうし、あんなにキラキラした目で話されたら無視出来ないだろうよ」
「わはは。キラキラかあ。いいねえ。話が合わなくてもいいから、一度そんな目の女と話ししてみたいよ、俺も」
「バカ、大変だって!」
 キラキラした目、で自分が恋をしていた頃を思い出すノッチ。シンジはその後も彼女から見せられたという、そのオジサンが彼女に送ったメールの内容を話ししていたが、雑踏の中で上手く聞き取れなかったのと、それ程興味がなかったので、適当に相槌を打っていた。それよりも、自分が恋をしていた頃、誰かを真剣に愛していた頃の感覚を、あの時と同じように一夜の恋を成就させようと鳴き続ける蝉、その声が入り混じる喧騒の中にノッチは探していた。
「なあ、アニキの奥さん、どうなのよ?」
 ノッチの思考の中に割って入る木綿子の顔。
「んー? まあ、相変わらず、だよ。だけど、」
「だけど?」
 バーのドアを開けながら聞き返すシンジ。
 学生時代から変わらぬ風貌のバーのマスターが二人を見とめて、いらっしゃい、と会釈をした。カウンターに腰をかけ、キメの細かい黒いビールが注がれた細長いグラスをシンジと鳴らしてからノッチは答えた。
「さっきの話だけど、木綿子さんは所詮、優兄ぃのモノだよ。俺の事なんか何かの一時しのぎだろ、きっと。例えば俺がどうにかしたいと思ったとしても、木綿子さんのことはどうにもできないし、俺にはそんなつもりもないしさ。まあ、遊びだよ、お互いに」
「ふうん」
 口の上に付いた泡をペロリと舐めてシンジはグラスを見つめた。











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