◇   Vol.5〜崩れ落ちる現実



 エレベーターの中は誰が吸ったのかタバコの匂いが充満していて、目黒駅から雨の中歩いてきてずぶ濡れになってしまっているマナの心を更に重くさせた。一昨日ジュンの家に泊めてもらった時に洗濯したお気に入りの白いカーディガンも、自慢のストレートの黒い髪も、首から下げたヘッドフォンもずぶ濡れだった。かつてマナと両親とが楽しく暮らしていた場所は、都内でも高級といわれる部類に入るマンションの十二階にあった。
 五日前に家を出て、それから初めて来たパパからのメール。優太と渋谷駅で別れてから、そのことばかり考えていた。

題名 眞菜へ
本文 パパが悪かった。帰って来て。

 パパは何を悪かったと思い、この先一体何をどうしていくつもりなのだろう。このままマンションに帰ってパパと話をして、何かがパパや私の中で解決して、答えが見つかるのだろうか。パパが何をどうしたとろで、五日前の悪夢のような事実が消えるわけでもないし、それに私はパパを許すことが出来るのだろうか。
 マナはエレベーターの中でも、五日前に父親との間で起こった出来事を思い出していた。それは思い出すなどという作業をする必要のないぐらい鮮烈な出来事だったし、逆に出来ることであれば記憶の中から消し去ってしまいたいほどの、本当に悪夢のような出来事だった。しかしマナには今のところここにしか帰る場所がない。この先どうなるにしろ、父親は避けては通れない存在だったし、このまま自分が父親の前から消えてしまったら、父親がどうなってしまうのか丸っきり想像もつかなかった。
 ドアには鍵がかかっておらず、電気は消えていた。しかし玄関の中には父親の靴が脱ぎ散らかしてあり、中に父親が居るのは確かだった。玄関の電気を点け、アルコールとタバコのすえた匂いの立ち込める部屋の中にマナは入っていった。
「パパ」
 マナは小さな声で暗闇の中に話しかけた。リビングの向こうの大きな窓には、雨で濡れて光るビルとその先に東京タワーの先の部分だけが橙色に光っていた。
「綺麗だな」
 マナはそう思いながら、リビングの電気を点けて、目の前に広がる異様な光景に絶句した。
「……。」
 リビングの大きなテーブルの上にはおびただしい量のビールの空き缶や焼酎のビンが散乱していた。そしてそれは、果たして五日間でこれだけの量のアルコールを人間は摂取出来るのだろうかと思うほどの数だった。テーブルの下にはコンビニの弁当の容器が散らばり、中には食べかけのまま放置されているものもあった。そしてテーブルの横のソファーには五日前と丸っきり同じ格好のパジャマ姿の父親が横たわっていた。その腰の辺りは異様に濡れていて、ビールをこぼしてしまったものなのか、あるいは失禁してしまったものなのかはマナには区別がつかなかった。
「パパ」
 マナはまた小さな声で父親に話しかける。無残な父親の姿に一度目を閉じ、再び見開いて今度はリビング脇のサイドボードに目を向けた。そこには三ヶ月前に急死してしまった母親の遺影があった。その表情はとても優しく、マナと父親を見つめていた。
「ママ……」
 マナは心の中で遺影に話しかけると、再び父親の方に向いた。なんとか起こして、話をしたい。五日前の出来事のこと、これからのこと。どうにかなるかわかないけど、分からないなりにマナは答えが欲しかった。先ほどよりもきつく異臭に耐えながら、マナは叫ぶ。
「パパ!」
 その声に父親は反応し、寝返りを打ち、目を閉じたまま声を出した。
「眞菜、か」
「そうよ。起きてよ」
 リビングの明るさに目が慣れないのか、父親はゆっくりと目を開き、体を起こしてマナの方へと体を向けた。その顔は無精髭に覆われ、口元は嘔吐したカスが残っていた。マナはその父親の姿に吐き気を催したが、我慢をして洗面台へと向かった。そしてぶら下がっていたタオルを水で濡らし、そのままリビングへと戻り、父親投げつけた。
「顔! 拭きなよ! 気持ち悪い」
 濡れたタオルを父親に投げつけたマナの目からは涙が零れだしていた。
「眞菜……」
 タオルで顔を拭きながら父親はマナに話しかける。
「眞菜……これ。おめでとう」
 そう言いながら父親はビールの空き缶の残骸をガラガラとよけ、その奥から大きな箱を取り出した。そしてその中から震える手で、白い塊を引き出す。その震える手の先には、きっと数日前に買ったのであろう、生クリームがすっかり溶けて垂れ流れてしまったデコレーションケーキがあった。
「誕生日、おめでとう。眞菜」
 昨日は眞菜の18歳の誕生日だった。
 本当だったら、優しいママと、少し内気だけど誠実で何処までも逞しく見えたパパがこの場に居たはずだった。でも今、目の前に広がる現実は写真の中のママと、五日前に自分を犯したパパがアルコールと廃墟の中にうずくまっているだけ。溶け出した生クリームもその上の崩れてしまったチョコレートもまるで私の心の中のみたい。
 マナは五日前、訳の分からないことを叫ぶ父親に犯されながら、窓の外の歪む青い月を眺めていた。初めてではなかったにしろ、マナの体の中には時折鈍い痛みが走った。痛みが走るたびにある記憶が甦る。赤。血に染まる自分。初潮。恐怖。ケガレ。ママ。しかしその記憶も目の前の肉の塊が息を吐く度に、ドロドロと溶かされていくのを感じていた。そしてその夜、マナは気がついたら渋谷駅のホームに居た。
 ケーキから目を離し、心の中に残された感情を振り絞りながらマナは叫ぶ。
「パパ! どうしてあんなことしたのよ!」
「あんな……って?」
 父親はそのけだるい表情でマナに問い直す。
「何を言ってるのパパ。五日前に、私を襲ったでしょ?! 嫌がる私を無理やり……」
 叫ぶはっきりした声とは裏腹に、どんなに見開いてもマナの視界は父親の姿をはっきりとは捉えることが出来なかった。マナは更に続ける。
「ねえ、パパ、どうして? どうしてなの? ちゃんと答えてよ!」
 父親はにわかに照れたような表情をその汚れた口元に見せながら、マナに答えた。
「だって、眞菜。眞菜はママの代わりだろ……」
 常識や、当たり前のこと。それは多分、真理に近いようなことですら。いとも簡単に、しかもあっさりとその表と裏は逆転する。カーテンを閉め切ってしまえば、たとえ昼間でも夜のように暗いのに、歌舞伎町のように煌々と明かりを照らしてしまえば、たとえ夜でも昼間のように明るいのに。それは全て作り出されたものなのに、それを頭の中では理解していても、その中に隠された真実に気がつこうとしない。そしてそれはやがて、ある日突然、もたらされる。
「……」
 マナには何を言っているのか丸っきり理解が出来なかった。
「何を言ってるの? パパ」
「だって……」
 そこから父親は饒舌だった。
「眞菜……パパはママのことがとっても大好きだったんだ。とってもとっても。眞菜が生まれるずっと前から。ママの為ならいつだって死ねると思ってたし、今だってそう思ってる。けど、ママはもう居ないんだ……」
 先ほどから手にしていた缶ビールの中身を飲み干した。
「ママとは高校生の時に知り合った。そう、今の眞菜と同じ年、十八歳。眞菜と同じ黒い長い髪で……ずーっとずーっと好きだった。卒業してママが違う男と付き合って、そのうちママが結婚しても、パパはずーっとママの事が大好きだったんだ」
 マナは生まれて初めて背筋が凍る、という体験をした。それは背中に限らず、頭の先からつま先まで一気に血が床の中に抜き取られるような感覚。とても立っていられず、マナはその場に座り込んでしまった。
「ママはロクデナシの悪い男に騙されたんだ。今でもはっきり覚えているよ。今時期の季節、いや、もう少し後だったかも知れない。ママは生まれたばかりの眞菜を抱いて、パパの住むアパートに来たんだ。本当にはっきりと覚えているよ、アパートの前の金木犀の花が満開で、ママと眞菜はその香りの中からやってきたみたいだったから」
 マナの涙はすっかりと引いていた。
「……パパ……それ、本当?」
「だから、パパはママが死んでしまったとき、ママは眞菜を代わりに残して行ってくれたんだと思ったよ」
「パパ? 聞いてる?」
「ママの代わりに眞菜を、ママと知り合ったときとそっくりの眞菜を愛しなさいって。天国のママが」
「パパ?」
「だから、眞菜を愛したんだ」
「やめてー!」
 そうマナが叫んだ後、先ほどから我慢していた吐き気に耐え切れなくなり、落ちていたコンビニの袋の中に嗚咽と共に吐き戻し、また涙が溢れて来た。押し寄せるわけのわからない感覚の中、お気に入りのカーディガンを脱ぎ捨てて、それで口を拭うマナ。あの、大きな背中も、ぶら下がって遊んだたくましい腕も、眠りの中で聞いた物語も、全てはこの廃墟の中の出来事と何も変わりはなかった。
 眞菜はうつむきながら、嗚咽の中から必死に父親に語りかける。
「パパ……戻ってよ」
「お願いだから……昔のパパに戻って……」
 父親はマナの言葉を理解する術をすでに失っていた。
「眞菜……また、愛し合おう。愛してる、愛してるんだよ、眞菜。パパのお嫁さんになるって言ってたじゃないか……」
「ねえ、もどってよ……」
 どれくらい時間が経ったのであろうか。窓の外の東京タワーの橙色の明かりは消えていた。うつむいたまま涙を流している間にパパは寝てしまった。
 例えばキッチンから包丁を持ち出してこのままパパを殺してしまうことはきっと簡単なのだろうけど、そんな気力も残っていない。家を出よう。私がこの場所に存在する理由なんか残っていない。ママもいないし、パパもさっき消えうせてしまった。今私に出来ることは、この場から逃げることだけだ。
 そうマナは考えると、ソファーの横に落ちていた父親のスーツのポケットから現金とカードを抜き取った。そして自分の部屋へ行き、修学旅行で一度だけ使ったボストンバッグに手当たり次第に服を詰め込んだ。それと、携帯の充電器。シャワーを浴び、着替えて部屋を出た。
 部屋を出て乗り込んだエレベーターはもうタバコの匂いはしなかった。
 雨は上がっていた。
 ガラゴロとインターロッキングの坂をボストンバッグを引きずりながらマナは携帯を取り出した。メールの受信ボックスの中を懸命にスクロールする。
「ユータ」
 その名前を見つける。
 もう、この時間じゃ寝ているか。奥さんと楽しく映画なんか見たりしてるんだろうな。
 マナはそう思いながらも、優太にメールをせずにはいられなかった。何度も打っては消し、迷いながらマナは優太にメールを送った。優太は分かってくれるだろうか。

題名 
本文 ・ ・ ・ ・

 マナは目黒駅前でタクシーに乗り込み、運転手に不審そうに見られながら、
「とりあえず新宿まで」
 とだけ告げた。
 新宿に着く前に鳴ってくれたら、とマナは思うのだけど、左手に握り締める携帯はまだ鳴らない。二、三日何も考えずに過ごせる場所を探そう。そう思うとマナは急激な睡魔に襲われた。
「もういいや、このままでも」
 マナは目を閉じた。
 閉じた目の奥には優太と、在りし日のパパとママの笑顔があった。











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